この記事のゴール
- 量子状態空間に「距離」を導入する必然性を直感と数式の両面から理解する
- Fubini–Study 計量 ⇒ 量子計量テンソル ⇒ 量子幾何テンソルという流れを整理する
- 幾何学的量が量子推定理論・トポロジカル物性・相転移にどう現れるかを俯瞰する
1. 量子状態とは何か?
量子力学では閉じた系の 純粋状態 は正規化されたヒルベルト空間ベクトル
∣ψ⟩∈H,⟨ψ∣ψ⟩=1
で表される。物理的に等価な状態は グローバル位相 を除いて同一視されるため、真に意味のある空間は射影ヒルベルト空間
P(H)={∣ψ⟩⟨ψ∣∣∣ψ⟩∈H,⟨ψ∣ψ⟩=1}.
2. 距離のある量子世界
2.1 フィデリティと Fubini–Study 距離
2 つの純粋状態の フィデリティ(類似度) は
F(∣ψ⟩,∣ϕ⟩)=∣⟨ψ∣ϕ⟩∣2.
ここから誘導される距離(曲率半径 1 に正規化された射影空間上の測地距離)は
dFS(∣ψ⟩,∣ϕ⟩)=arccos(F).
測定で 区別しにくいほど距離は短い──古典的ユークリッド距離と同じ発想である。
2.2 Fubini–Study 計量の微分形式
パラメータ λ=(λ1,…,λm) に依存する状態列 ∣ψ(λ)⟩ を考え、λ→λ+dλ の無限小変化を取ると
ds2:=dFS2(∣ψ(λ)⟩,∣ψ(λ+dλ)⟩)=4(1−∣⟨ψ(λ)∣ψ(λ+dλ)⟩∣2)=i,j∑gij(λ)dλidλj+O(dλ3),
gij(λ)=ℜ[⟨∂iψ∣(1−∣ψ⟩⟨ψ∣)∣∂jψ⟩],∣∂iψ⟩=∂λi∂∣ψ(λ)⟩.
これが 量子計量テンソル(量子計量) の実部であり、射影空間に誘導される自然なリーマン計量を与える。
3. 量子幾何テンソル:計量と Berry 曲率の統合
3.1 量子幾何テンソル(QGT)の定義
量子計量テンソルに対応する複素対称テンソル
Qij(λ)=⟨∂iψ∣(1−∣ψ⟩⟨ψ∣)∣∂jψ⟩=gij+iΩij
を 量子幾何テンソル と呼ぶ。
- 実部 gij=ℜQij:量子計量(距離の二乗)
- 虚部 Ωij=2ℑQij:Berry 曲率
Berry 曲率をパラメータ空間で積分すれば Berry 位相が得られ、トポロジカル不変量(チャーン数など)を与える。
3.2 ブロッホ状態への適用
周期系でのブロッホ状態 ∣un(k)⟩(バンド n)に対しては
gμν(n)(k)=ℜ[⟨∂kμun∣(1−∣un⟩⟨un∣)∣∂kνun⟩],
Ωμν(n)(k)=2ℑ[⟨∂kμun∣∂kνun⟩].
これらは バンド幾何量 と呼ばれ、トポロジカル絶縁体・量子ホール効果など多くの物性現象に現れる。
4. 幾何的量が語る物理
4.1 量子相転移と臨界点
- 臨界点付近では波動関数がパラメータ変化に 極端に敏感 となる。
- 多くの場合 detgij や Trgij がピーク/発散し、相転移の 指標 として機能。
4.2 量子パラメータ推定と量子フィッシャー情報
量子フィッシャー情報行列は Iij=4gij。クラメール–ラオ下限
Var(λ^i)≥[I−1]ii/ν
が成り立つ。量子計量が大きいほど 小さなパラメータ変動で量子状態が遠く離れる ⇒ 測定で区別しやすい ⇒ 高精度推定が可能。
量子計量が大きい方向ほど、2 点間を大きく迂回して状態が急速に変わるため、測定で区別しやすくなる。
4.3 トポロジカル物質と応答関数
- Berry 曲率 Ωij の積分はホール伝導度やチャーン数に直結。
- 量子計量と Berry 曲率の組 TrQij は Hall viscosity にも寄与。
5. 量子計量の拡張:混合状態と Bures 距離
現実の量子デバイスでは混合状態が避けられない。混合状態 ρ(λ) では
dsBures2=21i,j∑Gijdλidλj,Gij=21Tr[ρLiLj],
ここで Li は対数微分(SLD)。Gij は 量子フィッシャー情報行列 そのものであり、純粋状態に限らない最も一般的な量子計量となる。
6. まとめと展望
量 | 意味 | 関連分野 |
---|
gij | 量子計量(距離の実部) | 推定理論・臨界現象 |
Ωij | Berry 曲率(距離の虚部) | トポロジカル応答 |
Qij | 量子幾何テンソル | 幾何とトポロジーの統一言語 |
- 量子状態空間に 距離 を導入することで、「区別のしやすさ」「物理応答の感度」「トポロジカル位相」という一見別々の概念が一つのテンソルに統合される。
- 本テンソルの大きさや曲率は、量子センシングから量子マテリアルまで広く 実験測定可能 な量となりつつある。
次回(第 2 回)の予告
- 量子計量テンソル gij と Berry 曲率 Ωij をスピン鎖モデルで具体計算
- 超ハイゼンベルク限界と非線形相互作用を例に、計量が推定精度をどう押し上げるか
- 実験的測定プロトコル(サイクルノイズ分光・干渉計測)と最近の成果
参考文献:arXiv 2506.17386